昭和46年02月06日 朝の御理解
御理解 第71節
「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにはいかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」
信心の稽古をしに来る所だとこう仰る。壮健な時此処へ参って信心の稽古をしておけとおっしゃる。そこで信心の稽古の焦点なのですけどね。どこへ焦点を置いて信心の稽古をするか。教祖様がいろいろ御教えを下さる中に、信心は家庭に不和のなきが元なりと。信心は家内に不和のなきが元なりと。元だ。体の丈夫を願え、体が元なりともおっしゃられる。ですからその元であるところの健康、いわゆる体が元と、又は信心は家庭に不和のなきが元と。元と云うことは二つ教えてあります。
そこで私共の修行というか又は信心の焦点と言う事がね、此処におかれる。ここに置かれるところに信心がいよいよ素晴らしい事となってくるんです。私共の信心の焦点がこれを頂かなければならない。ここをどうでもと、これをね体の丈夫を頂き、家庭に不和のないというおかげを頂いたら、他のおかげが全部付いて来るとですよ。もう人間の幸福というものはね、幸せと言う事の全てがね。
信心に依って健康のおかげを頂き、信心に依って家庭不和のない元を頂いたらね、もう全てのおかげが或る意味に於いて成就すると入ってもよいでしょうね。問題は壮健であると云うこと。健康であると云うこと。家庭に不和のない、云うなら家族中の者が拝み合うて生活が出来る。感謝し合うて生活が出来る。そのおかげを頂いたらね、もうお参りしなければおられないであろうし、御用さして頂かなければおられん事になって来ようし、ですから、そこんところがいよいよ信心が深うなると言う事は。
その家庭不和である、不和でないと言う事、体が健康であると言う言をいよいよ神様のおかげでと痛感するところからね。いわば止むに止まれぬお礼心の信心というのが出来て来る。これにおかげが伴うて来る。これがいよいよ正常のものであり、本当のものであると言う事になるのです。昨夜は壮年会の信心共励会、毎月の共励日でございました。私いつも思うのですけれども、壮年部の共励会が一番素晴らしい様に思いますね。一人一人の人が素晴らしい体験を発表していかれる。
本当に有り難い。いつも私はそれに参加さしてもらって本当に時間の経つのも忘れる様に、昨日十二時頃迄熱心に共励をさして頂いた中にですね、総代さんの永瀬さんが発表しておられる事なんです。それを聞かせて頂いてから私が思い、私が話した事ですけれども、皆のお話し皆素晴らしいけど永瀬さんの話が一番素晴らしいと話した事でした。というのはです。別にこれば貰わんならんとか、頂かんならんとか日々のお取り次ぎを頂いて願うことは沢山有りましょう。
けれども永い間ですね、夫婦が朝の御祈念にお参りが出来とられると言う事。過去のことを思いますと夫婦の仲、親子の仲も決して仲が良かったとは思われない様な事がいろいろ事情があった。それには根本的なものがあって段々信心させて頂く様になってから、御夫婦で朝参りされる様に成ってどの位になるでしょうか。まあ十年位のものでしょうか。信心はもう二十年から成りますけれども、成程お願いせなければならん事が沢山ある。又長女の純子さんが白血病ですか、血が無くなって行くという。
普通の今の医学では手当ての仕様のないという様な難儀な病気でおかげを受けられたという様な事が愈々信心が白熱化して来た訳ですけども、段々一心の信心をなさっている内に、いわゆる家庭不和であると言う事の根本というものが取り除かれた。親子夫婦の中に拝み合いの生活の出来れる元が出来て来た。反対にああおかげで家庭円満で皆が健康でおかげ頂いとりますという人は沢山有りますけれども、それがね例えば現在は私の四時の御祈念の時には私は箕の中ですから分かりませんけれども、お参りになっとります。
とにかく寒中修行には先生のお出ましになる迄にはという風に精進しとられますけど、それが一日も欠ける事なしに朝参りが出来とられて、そういう修行が出来とられる。それがどこに焦点が置かれてあるかというと、先ず第一に家族中の者が健康のおかげを頂いておるという事。家庭に不和のなきが元なりという、その元という元を頂いていると言う事。その二つの元を頂いているところは、幾らも有るかも知れません。
けれどもそれがね、止むに止まれん気持ちで朝の三時四時から起きて朝参りでもさせて頂かぬと居られないという。そういう信心が出来られると言う言が私が一番素晴らしいなあというて話した事でした。こげんおかげ頂いとるけん、時には御礼参りさせて貰わにゃ、ああお月次祭には御礼参拝させて貰わにゃ、だから私は申しました。本当に有り難いと云うてもこれ位ばっかり有り難い。嘘じゃない。思うて有る。この位ばっかり御礼を、一尺ばかり有り難い。
ほんに有り難いこっちゃあるのと、夫婦で話し合いが有りよるとするなら、それにこんど五尺位広さで有り難いと思うてござる人が有る。けれども、こうしなければおられない。朝参りでもして御礼をせにゃ居られないとして、夫婦の者が朝参りさせて頂いておると言う事。そのことがしかも止むに止まれぬ思いでおられる。それこそ抱いて締めてという様な感じです。これだけはもう、どうでもこうでもという感じ。好きというてもね。これ位ばかり好き、好きにもいろいろありますからね。
もう好きで好きでたまらんちゅう、抱き締めたい位のものが有る様に、同じ好きと云うても同じ有り難いと云うてもその様に段階がある訳です。昨日の話の中では永瀬さんの話が一番平板でしたけれども、それがね、例えば朝参りだけじゃないですけど、朝参りにその様な形で表されている事は素晴らしい事だと云うこと。もう本当に心配で心配でたまらん。不安で不安でたまらん。苦しゅうて苦しゅうてたまらん。
その心配や苦しみがです、それこそ朝参りというか、尻に火が付いたようにしてお参りをして来ると、そこからこう言う事を分からせて頂く。こう言う事を探って行きよると何か話としてはそれは非常に素晴らしいです。成程信心の難儀というか、その難儀を信心によって助かって行こうと言う事は非常に素晴らしい。けど何が何といっても一番素晴らしいという焦点がおかげで家庭、信心させて頂くおかげで、所謂夫婦仲が悪かったちゃ、いや悪かったちゃなかですけどね。
悪かったとまあいいます。けれどもその悪かった元が有った。その元が断たれた時にです、夫婦が拝み合って行けれる様になったと、家族中がとにかく親先生はどげんいいなさるのと、例えば今問題があっても親先生のどげんいいなさるかと言う事がぴしゃっとその答えが出て来る。然もその有り難さがです、信心に依ってこれ程健康のおかげ頂いた。もうない命といわれる程しの不健康な者が健康のおかげも頂いた。
どうにも仕様のなかった夫婦のこじれたといった問題が元を取らせて貰うたらこんなにすっきり有り難く仲良うならせて頂けた。その有り難さが、いうなら何十年間朝参りを続けられておるという事。そこがとても素晴らしいと言う事。それがやっとかっとというんじゃなくてです。ならゆうべなんかもう十二時、やんがて家に着かれたのは一時位じゃなかったろうかね。休まれるときには。
然もこの雪をおかして夫婦が矢張り朝参りして見えておられる。それはもう、止むに止まれぬもの、お母さんこりゃいっちょがんばらにゃ出来ん。こげなおかげ頂かんならんけん、お前もいっちょがんばってくれと、それとは全く違うんだ。今日私が云う信心は家庭に不和のなきが元である。体の丈夫を願え。体が元なりと。その体が元なりと云うその元。家庭円満であると言う言が元。信心によってこれを頂いたからもう頂くものはなかと云う感じですけれども、このおかげを頂いていると言う事がです。
止むに止まれんと言う事になって来て、朝参りの姿に表れて然もいつまで参ろうといったもんじゃないと言う事。私はそれをしきりに今日私、昨日の話では一番平凡なお話しであったけれども、素晴らしい事だな、信心はと思うたら今日の御理解七十一節なのである。ですから今日は七十一節がその様な角度から説かれとる話です。いつもはこういう風じゃないでしょうが。七十一節は。そしたらね、私今日はっきり頂かせて頂くことが滝本常子と頂いた。今日お参りになっとられます。
滝本常子さん、これはその滝本常子さんの事でなくて、その滝本常子という、私が字から感ずる、字から頂かせて貰う感じとして。滝という字は修行だと言う事。滝に打たれるという滝、所謂今日の信心の根本的なものはね。信心の稽古ここには稽古に通ってくる時、壮健な時信心の稽古をしとけと仰る。ここに途中に出てくる日雇いやら病人やらが居ってはお参りが出来ないとここでは説いてあります。
容易う説いてある訳ですよ。所が例えば昨日辺りの御理解頂いておると例え病人があってもね、ままよという気になって出て来いというのでしょうが。なら日雇取りだからと云うてお参りが出来ん。永瀬さんは今いう通り給料取りさんですから、いうならば日雇取りと同じ事。だからお参りが出来ぬかちゅうと朝参り夜参りが出来とる。だからここんところはもうもう楽に楽に説かれておるのであって、壮健なときというと殆どの人が元気であるんですから、それはもうどうでもこうでもお参りして来にゃ出来ん。
いつもかつもがそういう修行が出来る。私は滝本常子と云うのはそう言う事だと思う。私共がこう云った修行を何日迄続けにゃならんと云った様な事ではさらさらないと言う事。学者が年を取っても眼鏡を掛けて本を読む様なものであろうぞいと仰った。信心は一生が修行じゃと仰られた。その修行が本当にこんな雪の日にこげな冷たか日に何日迄お参りせにゃんじゃろうかでなくてです。もう嬉しゅうして嬉しゅうして、有り難うして有り難うしてと云うのが、止むに止まれんと云う事になって来た。
いわゆるその止むに止まれんという気持ちがこの様に朝参りとなって表されておるという事。然も俺とお前が一緒に参りよるけん、いっちょ五十になる迄は参ろうというものじゃなかろうと思います。もう俺とお前は健康が続く限りこれだけは続けにゃならんぞと話し合っておられるかどうか分からんけれども、お互い心に交流するものはそういうものじゃなかろうかと思う。だからその思いは愈々募るばかりである。信心の根本のもの、所謂滝本と云うのは元という事である。そういう風に下さったんだと思う。
常子という云うのは、もう常の事である。常平生の事である。もう当たり前の事としてそれが出来ておるという事である。一番素晴らしいと言う事は、これにおかげが伴うて行かぬ筈はない。人間の幸せ一切がこれに伴って行く事であろう。それがいよいよこの信心が成長していく限り。次にはこんなお知らせを頂いた。今の滝本常子という意味は分かりましたね。皆さん。今日はこの七十一節からね。ここへは信心の稽古に来るところだとおっしゃった。
もう壮健な時ここへ参って信心の稽古をしておけと言う事は、いつも信心の稽古に通うて来いという意味が有ると思います。ところが、信心が薄いとですね、難儀なときにはそうにゃ参って来なさる。体が悪い時にはね、医者どん通いするつもりで合楽に通うたばってん、快うなったらぴしゃと止めたというのも沢山有る訳です。金の足らん時はまるで合楽の教会が銀行でばしあるじゃろうかと思う位に通うけれども万事御繰り合わせ頂いたら、信心も薄うなってしまったというのもあります。
だからこそ、ここでは壮健な時とこういう。もういうならば、金にも大して不自由しない。健康もおかげ頂いたというときに信心の稽古をしとく。どういう稽古をするかというと日々が有り難い、勿体ないとその元であるところの二つの元。二大根本と申しましょうか、信心の。体が丈夫である。そういう体の丈夫のおかげを頂いたら、又家庭でもそういう平和のおかげ頂いたら、それがね、体の丈夫が、家庭の円満が、これがどのように成長して有り難い。
こういう有り難いおかげをあの人にもこの人にも伝えないではおられないと言う様な思いというものが募って来る事であろう。だから限りがない。私の幸がどうかそれが世界の隅々にまで繋がる程しの幸せを頂かなければならん。元此処に田代幸子さんという婦人総代さんが居られました。御造営中に亡くなられましたがね。その田代幸子さんが、丁度昨日壮年部会が、共励殿が楽の稽古で使っておりましたから私の控えでさせて貰いました。まあ十名の者が集まっとりましたから私の部屋で丁度良かった訳です。
やっぱり丁度昨日と同じ形で共励をやっている所へですね、中ば頃でした襖を開けて入って来られたのが田代幸子さんです。遅くなしましてというてから、入って来られるところを頂きました。婦人の方ですから壮年部会に入って来られる事は無い訳ですけれども、はあこれは御理解だなと思うたんです。そこでんなら田代幸子と田とは田園の田、代とは代々の代と一代二代の代、一生一代の代ですね、田代とは。幸子とは幸(しあわせ)の子と書いてある。
その中からね、感じとらせて頂いた事は、昨日の壮年部会の共励会は素晴らしいなあ、素晴らしいなあと思うて休ませて頂いた。兎に角ね、私共これは夫婦でも親子でもですね。いつも例えば共励し会えると云う事。信心共励がこれがおかげの受け物だと田代と田と云う事はおかげの受け場と。どんなに立派な田でも種を蒔かなきゃ出来ませんし、どんなに素晴らしい種が有っても田園がなかったら出来ません。だから田代というのはそういう意味だと思う。
もちっと具体的にいうと、おかげの受け物が代々続くという、いわゆる徳を受けると云う事。幸の子、幸子。人間の真実の幸福というか、その真実の人間の幸福の土台になるものは、今申します家庭の不和の無いと言う事。体が丈夫であると言う事、しかもその体が丈夫である事が、家庭が円満であると言う事か有り難いというもの。有り難いというそれが愈々高度なものになって、たぎる様なものになって来る。
その有り難い勿体ないがです、永瀬の例をとると朝参りもさせて貰うてお礼参りさせて貰わねば勿体ないというところまで高められておる。然もその上です、その朝の御理解頂いて帰って食事をなさるでしょう。又夕食のとき顔を合わせる時が有るでしょう。今朝の御理解は素晴らしかったねと、お前はあそこはどう頂くかと。私はここはこう頂きますと、例えば、そういう夫婦の中でも信心の共励が出来れると言う事。そこから信心が愈々もう一段と育って来るのです。信心共励とはそういう素晴らしいもの。
壮年部会のあっておるところへ入って来られた田代幸子さんのお知らせを頂いて、私はその様に感じた。ところが家庭が円満でありませんとね、円満の様でありましても、円満でないとね、信心の共励が出来ません。もういつとはなしに口を開けば有り難いこと、これはまあ私共夫婦の場合ですけれども、今はもうあっちこっちですから、そういう訳には行きませんが、以前はそれこそ寝物語か、どげん考えたっちゃ有り難い事ね。これでね有り難いものが通用しよった。お互い交流しよった。
それかちゅうて今の家にこげなおかげ頂いとるというばかりじゃない。どんなに難儀が続き、苦労が続いておる時でも、こういう難儀の中に信心のおかげでお前やお父さん明日食べるお米がないですよと、もうよかよか今夜食べられただけでも有り難いじゃないか、明日は明日の風が吹こうぞと、まあそげな中にそげんいうて休まれるちゃ何と有り難いこつかと云う事なんである。それがなら翌日はですね。本当に不思議な不思議なお働き頂いて一家中の者が飢えんで済んだ。
おかげを受けておったという事実をね。私共がどげん考えても信心は有り難いじゃないかとこう、もうこれは共励以上の共励ですよね。理屈じゃない。昨日或る方達に私の控えの間、炬燵の間でお話しした事です。今仙崖さんのカレンダーに堪忍という字が書いてあります。堪忍と云うものは、出来る堪忍ならそれはもう堪忍じゃないのだと。出来ないところを忍ばせて頂くのが本当の堪忍だと言う様な話が入れてあります。そこで私は申しました。信心はさして頂きよるとね。
第一この堪忍ばせんでよかごとなると私が申しました。今までならぐうぐういうて堪えんならん事でも、それをぐうぐういうて堪えんでよかごとなる。かつがつ有り難いと消化してしまう。信心の素晴らしさはそこだと思う。がんばって忍ばんならん事じゃない。そういうおかげの頂かれるのが私は信心だとこう思います。私共が信心してお徳を受けて、あの世にも持って行けこの世にも残しておける、いわゆる田代である。おかげの受け物を一反よりも二反、二反よりも三反とおかげの受け物を広げておかねばならん。
然も後の子供達がそこに種さえ蒔いて行けば限りなくそこから頂けて来る基礎を造っておかねばならん。これは人間の幸、所謂幸子である。然も絶えず共励しておる。それこそ昨日田代さんが私のお知らせの中に、矢張り襖を開けて共励の中に、ああ遅うなりましたと入って見える、忙しゅうして忙しゅうして一寸手が放されんものですから、遅くなりましたと云う様な感じなんです。どういう忙しい中にあっても、共励会がありよるなら行かなければ居られないという様なもの。いつもいつも求めて止まないもの。
いつも新しいものを分からせて貰おうとする信心姿勢がです。なからなければならない。。それがおかげを頂いて家庭円満であり家族中の者が健康である、その喜びが有り難いというものがです、それが、朝参りにでも表さにゃ居られない程しのところまで高められると云う有り難さ。これがね、私は本当の意味での信心の稽古の焦点とはそういうところを願いとして焦点として、ここには信心の稽古に来るとこと仰るが、そう言う所をお互い信心の焦点として行かねばならないという事です。
昨日善導寺の原さんが発表しとられました。信心頂く様になってから、兎に角あそこは洋服屋さんですからね。もう肩が凝ってどうにもならんと云うのが未だ信心なさる前の未だ若い頃の原さんでした。それが信心頂く様になって肩の凝るという事を知らないと。それがもうこの頃おかげ頂いてから、健康のおかげ頂いとるとが、そして家族中で寒修行にお参り出来るという事が、もうこちら二十何年かなりますね。この合楽が始まって以来、椛目を通して御夫婦が朝のお参りが出来とられます。
そういうおかげを頂いとる事が一番有り難い。有り難いと云うて健康の事をいうておられましたからね。まあいっちょあろうがのと私が申しました。何ですかちゅうごたる顔しとんなさるけん、もうどれだけ、去年の四月頃でしょうか、大体云うならもう洋服屋のシーズンで忙しゅうなからんならんのに原さんの家だけが何日も何日もとにかく来る日も来る日も、昼も合楽に参って来んならん云う位に暇じゃった訳です。仕事がなかった。或る朝晩参られ、昼参って見えられた時に申しました。
原さんあなた達がね、私が改まってお願いをするから、ならどういう例えば、忙しい仕事を頂いたっちゃ忙しいなら忙しだけ尚御礼参拝出来る様なおかげを頂きなされにゃいかんですよ。今迄は忙しければ朝参りはお前だけしといて呉と、俺はこうしてやりよるからと忙しければ忙しいと云う事にかまけてお参りが出来んという事があったが、これからはどんなにお仕事頂いても忙しければ忙しいだけお礼参拝させて貰うと言った様な神様に誓いを立てなさいと私が申した。
そして改めてお仕事を頂く様にしましょうとお願いしましたら、その明くる日から今日までずうっと仕事が続いとる。いつも一月二月は洋服屋さんは閑散時、他の洋服屋さんは大してありよらんちゅう中にです、原さんところはずうっと続いとる。そこで矢張り忙しいけれどもお礼参拝させて貰わずには居られんのであり、例えば共励会は晩遅くなるから御無礼しなければというところでしょうけれども。
それが共励が出来、お礼参拝が出来ておられると言う事。信心の一番尊いところはそこだと思う。信心ちゃ何かお願い参りのごと云うけれども、成程お願いも沢山有る、せにゃならん。けれどもその根本になるものは、おかげを受けて有り難しと云うそのお礼参拝、それが止むに止まれんものに育って来る。今日はここへは信心の稽古に来るところと。ならその稽古の焦点をどこに置くかと言う言を中心にお話しを申しましたですね。
どうぞ。
ひとつこれだけは絶対の事ですからね。神様からそれを頂くのですから。滝本常子ということをよく考えてみて下さい。それから田代幸子が共励場に表れておられると言う事。これをよく考えてみて下さい。ここんところを放さんで信心の稽古をなされなければいけないことなんですから。